宇佐見りん「推し、燃ゆ」感想

 

 

 

 

フォロワーさんに勧められたので宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」を読んだ。

 

読了直後はただ茫然として、それも落ち着いて考えがまとまってから一時間の間感想ツイートを呟く手が止まらなかった。手が震えてきて空腹の合図だ!と思って、「推しみたいな腹筋が欲しい」と願っていろいろ気を遣っていることも忘れてお腹いっぱいご飯を食べた。友人からもらったおいしい漬物と、これまた友人からもらったおいしい缶詰まで開けてしまった…(いつか酒のつまみにしようと思っていたのに…)

 

なんかめちゃくちゃすごい文章を読んでしまって、謎に影響されているのか文体が二次創作をしているときのアレに近い気がして恥ずかしいけど、もうこのまま書き進めてみようと思う、そうじゃないと感想書いてられない!

 

以下から感想です。

 

 

 

 

 

 

この物語は、共感できる人と共感できない人とで感想が割れると思う。

この物語の主人公あかりは、「推し」を持つ一人のオタクだ。問題はその推し方だ。

推しの推し方は人によって千差万別だと思う。あかりにとって推しは、彼女の「背骨」だと言っている。(うろ覚え)(読み返すパワーがないのでうろ覚えで書きます許して)彼女をなんとか二本足で立たせて、人間の形にしてくれているもの。

 

つまり彼女にとって生きるということは「推しを推すこと」そして「推しを解釈すること」なのだ。この推し方に共感できなければ、この物語の感想は「何を大げさな」だと思う。たぶん。想像で話していますが。

正直こんな地獄みたいな共感したくなかったんですけど、残念ながら私は彼女の感情に身に覚えがありすぎた…。(私は私の経験のなかで感じたことをもとに物を解釈する癖があるので、作者の意図する解釈かはわかりませんが)

 

一時期「何で生きてるんだろう」って思ってる時期があった。だからって別に死にたいってわけじゃなかったものの、なんで生まれてきたのかはよくわからなかった。特別能力があるけじゃなく、むしろ欠点しかない。周りの人みたいにうまいこと社会の中で立ちまわることができない。

胸を張ってやってきたことと言えば、「オタク活動」だ。推しを推しているときだけ、私は生き生きとしていたし、人前じゃうまく話せない自分の感情とか考えとかが、推しを通せば溢れるほど饒舌に表現することができた。

だから推しを推していることこそが私の生きる理由だったし、それでしか生きれなかった。(と思っていた)

 

だから、徐々に年を重ねて自立に向かって行く過程で私は痛い目を見た。「何をしたいか」「どうやって自分の人生を生きていきたいか」そうした問いに直面した時、私は全く答えが出せなかった。

それも当たり前で、本当に「推しを推すこと」しか考えていなかったからだ。自我がそこにしかなかった。

 

何で自分がそうなってしまったかはよくわからない。多分親との関係が大きいと思うけれど、(人のせいにしてるみたいで情けないけど)気づいた時には推しを推すという行為の中でしか自分らしい考えや言葉を表現できなくなっていったし、嘘偽りない感情を持つことができた。

推しが好きな気持ちだけが、自分の「本当の気持ち」で、だからこそ推しを推している間しか生きている実感がなかったのだ。

 

この主人公は、生まれつきの気質もあってか勉強はうまくできないし、アルバイトも要領よくこなすことができない。しかし、推しに関わることだけは事細かに覚えることができた。推しに関わることしかできないのだ。身の回りのこともできないけど、推しの祭壇だけは綺麗に飾ることができる。

私にもこの感覚に覚えがあって、アルバイトのところなど感情移入しすぎてむちゃくちゃ辛くなってしまった。同時並行の作業がうまくできない。覚えるべきマニュアルと、唐突に飛び込んできて蓄積し続ける例外。推し以外のことは上手く考えれられないので、マニュアル外のことは咄嗟にできないし、仕事の順序も決められない。何をしていいのかわからなくて内心パニックになるけれど、それでも仕事だからやらなくてはいけない。案の定失敗だらけで怒られまくる。いつのまにか怒られないようにという意識だけが先行して全然覚えられない。また失敗する。悪循環である。

印象的だったのが、お客さんの「ちょっと濃いめに作って」に答えられないところだ。あそこで「真面目」という評価を受けたあかりだったけど、あれは決して真面目ではないのだ。自分で考えることができないからマニュアル通りにしかできない、だから傍から見たら真面目に見えるけど実際はそうではない。地獄か。

でもそこで稼いだお金は推しのために使える。そう思えば、なんとか踏ん張って働くことができる。推しのため、と思えば、役立たずで迷惑ばかりかけてしまう私でも「働かざるをえない」ので、どうにかして働くことができるのだ。

 

そういう意味で、私にとっても推しは背骨だし、私をなんとか人の形に保たせてくれていた存在が推しだったように思う。

今にして思えば、推しを、推しを推すという行為・推しが好きという気持ちを、己の中に取り込みすぎていたのだと思う。

 

あの主人公あかりの辛いのは、家族が彼女の生まれつきの精神的な問題に関わる余裕(精神的にも・肉体的にも)がなかったところだ。彼女の母親はあかりの祖母に相当なうらみを抱いている。自分をコントロールして、思い通りにさせてくれなかったことに。

そして皮肉なことに、母親が一番恨んだのと同じことを、彼女は子どもたちへの期待という形で強いているのだ。だから、彼女はあかりの生きにくさに気遣うことができないし、あかりの姉は母の期待に応えようとしている。姉は姉で自我が母親によって支配されているようにしか思えない。こういうところも地獄。

 

姉の「どうしてそんなんで頑張ってるとか言うの」が、あまりにも辛すぎる。はたから見たらあかりのしていることは、やらなければいけないこともやらず趣味に興じているだけに感じるだろう。気楽でいいよな、と。この気持ちは痛いほどわかる。

でも、あかりにとってはそれでしか生きる術がないのだ。「あかりは何もできない」と周りにそう思われてきて、そして実際自分の無力さを痛感している彼女にとって、唯一できることが「推しを推すこと」なのである。あまりにもつらい。

 

本当にそうすることでしか生きられないということが、ある……あるんだよこれが…

あかりは推しがただの人になってしまったことで、推しを推すことができなくなった。あの終わり方を見るに、彼女の背骨は多分徐々に入れ替わって、「推し」ではなく「自分」のものになっていくのかな、と思った。そうやって、少しずつ、彼女が自分の人生を歩めたらいいなと、心の底から思った。

 

私がなんとか自我を得たのは、あかりのような経緯ではないが、彼女のように(?)自分の存在理由と同化していた「推しを推すこと」というものが、離れて行って、適正な距離を保てるようになったと感じている。具体的に言えば、推しに対する時間やお金のかけ方が変わった。時間も金も、なるべく推しに捧げていた私だが、最近では自分の将来のために、推しを見る時間を減らして本などを読んで勉強に費やしている。以前の私ではありえない変化だ。

 

とはいえ、自我と推し活が同化していた時期なんとか立ってられたのは推しのおかげなので、推しよ、ありがとう…という気持ち…

 

 なんか本当に、この物語を読んで、あの頃に感じていた感情を一気に思い出したことで、改めて今の自分との変化を感じることができた。そして、なによりかつての己への弔いになった気がする。もうあの頃の私と別れを告げて、自分のできることを、小さくてもいいから人生の中でやっていきたいなって改めて感じました。

 

すごいものを読んだ…この作品に感謝…あと勧めてくれたフォロワーさんに感謝…

(ここでサンサーラを流したい)

 

以上自分語り多めの感想でした。